洗濯機に二人分の衣服を詰め込んでいたシグルドは、人の気配を感じてその手を止め、脱衣室からヒョイと頭を出した。
「おかえり」
肩に掛けたタオルで首筋を拭いながら戻って来たカーランは、その顔を見てピタリと足を止め、挨拶を返す代わりに表情を見る見る険しくさせる。
「まだ居たのか」
「だって俺、部屋出てもロック掛けられないもん」
「そうだったな。ほら、ロック掛けるぞ。早く出て行け」
「あとカール、帰ったら『ただいま』だろ」
「『ただいま』『さようなら』これで良いか? さ、お前はもう帰るんだ」
カーランは早口で捲くし立て、せかせかと室内を突き進む。話している時間さえ惜しいとでも言わんばかりだ。
「汗かいたんだろ。洗濯機、丁度回す所だから」
「……シグルド」
ミネラルウォーターのボトルを手にしたカーランが睨み付けている。シグルドは態とらしい仕草で洗濯機の中を覗き込み、制服を一着摘み上げた。
「もう洗剤入れちゃったんだよね……」
口を尖らせながら、カーランに聞こえるように独り言。
「このままじゃ、持って帰れないし……」
そう呟く横顔に、汗で少し重くなったシャツが勢い良く飛んで来た。続け様にタオルもズボンも靴下も投げつけると、足音を立てて視界から消えて行ったカーランに、シグルドは掴み損ねたものを拾いながら上機嫌で呼び掛けた。
「終わったらちゃんと帰るよ」
カーランは応えない。「機嫌悪いなぁ」と思い、原因を自分なりに考えてみるが思い当たる節がない。ただ、『彼の機嫌が良い事はごく稀』という事実に気付き、シグルドは納得して洗濯機の操作を再開した。


その機嫌の悪いカーランと、極めて上機嫌なシグルドは、二人連れ立って休日に賑わうショッピングモールに居た。波乱の末に。
休日の過ごし方。エテメンアンキをぶらぶらショッピング。このような選択肢をカーランは持ち合わせていない。平日と変わらぬ時間に起床。ごく軽い朝食を摂り、一刻程トレーニングに出る。シャワーを浴び(今日はここでも一悶着あった)、午前中は軍政府関係の情報収集。昼食の傍ら、切らしている生活用品や食料品をコンピューター端末を使って注文し、午後は学校教育では補いきれない教養を身に付ける為に、諸々の専門施設へ出掛ける。帰宅は平日と同じ時刻だ。後の過ごし方は平日と変わらない。
彼の休日は、シグルド曰く、『予定もなく暇をしている。せっかくの休みが勿体無い』。カーラン曰く、『休日にしか出来ない事はいくらでもある。平日以上に忙しい、貴重な時間を過ごしている』。

シグルドの足取りは軽い。なんと充実した休日の過ごし方だろう。
「こういうの、カールは興味ないのか?」
「……お前は、何をしに来ているんだ」
二人は、ヒュウガの誕生日に贈る品を探しに来ていた。
「『冷たい奴』だな」
カーランは眉を上げて軽蔑の視線を送り、シグルドが先程彼に放った言葉をそっくり返してみせた。
(コイツ、本当に根に持つよな……)
その話を持ち出した際、何の悪びれもなく、真顔でさらっと「どうしてそれをする必要があるのか」と聞き返したカーランに、シグルドは大袈裟に驚き、肩を落として失望し、冷血だとけちょんけちょんに罵ったのだ。彼と休日らしく買い物に出掛けたいと、その一途な願い一心に。もはや駄々しかないシグルドの訴えに呆れたのか、はたまた憐れみを抱いたのか、カーランは折れこうしてここに居る。
 ただもしかしたら、あの苦肉の中傷を案外気にしているのかもしれないと、恨めしそうな彼の物言いに、言い過ぎたと己の言動を省みる。それでも、こうでも言わなければ街へ出ては来なかっただろう。それを考えれば、止むを得ない策ではあった。放っておけば、捻じ曲がり、更には一回転二回転と繰り返し、真っ直ぐ鋭利に尖ってしまった彼の性格は研ぎ澄まされる一方で、修正不能な域に陥ってしまうに違いない。突き抜けのポジティブさは、シグルドの持ち味である。
 それに彼も意外と楽しめているようだ。無理にでも連れ出して良かった。朝から眉間に皺を寄せっ放しのカーランの表情を窺い見て、シグルドは満足そうに小さく頷いた。


カーランが自ら足を止めたのは、二人がカメラの陳列された売り場に差し掛かった時であった。
「カールはこういうのが・・・」再びそんな問い掛けをしそうになったシグルドは、その言葉を飲み込み、黙ってカーランの隣に整列する。
じっと商品を眺めていたカーランが、ぽつりと口を開いた。
「ヒュウガは、写真が好きなのではなかったか?」
「写真?」
ヒュウガとは四六時中生活を共にしていたが、そんな話は一度も聞いた事がなかった。カメラに興味を抱いている素振りを見た事もない。機械全般に抱く興味は、人並みを外れた度合いではあるが。
どこから出た話だろうと尋ねると、カーランはこう質問を返した。
「一枚、写真を大事そうに持っていなかったか?」
聞かれてシグルドは手を打ち、打ったその手を腰に移動さて呻き、説明する。
「あれは写真が好きなんじゃなくて……」
ヒュウガが大切に持っている写真とは、彼の兄弟が写された写真なのである。彼がまだ第三級市民だった頃の。彼の兄弟が未だ存命だった頃の。
彼が大切にしているのは写真そのものではなく、そこに写されている思い出の姿である。そう説明するシグルドに、カーランは解ったような解らないような顔を向け、それから再びカメラへ視線を戻す。
「ではこれを遣った所で、喜ぶとは限らないのか」
「そうだなぁ……」
寧ろ、彼にとっては遠ざけたい部類に入る品かもしれない。シグルドの見解に、カーランは不思議そうに首を傾げた。
「それは写真に思い出が写されている事と、如何関係があるんだ」
その質問にシグルドは顔を顰め、どうしてこう、根性が曲がっているのだろう、と嫌悪感すら抱いた。彼の性格など、今更、分かりきってはいたが。調子の外れた事を大真面目な顔をして聞くものだから、質が悪い。自分でもぼんやりとしか抱いていない感覚を、逐一言葉にして説明する羽目になるのだ。そしてそれは、時に気恥ずかしい内容になる事もある。言わずとも、察して貰うべき事なのだ。
「ヒュウガにとって写真って言ったら、イコール兄弟との思い出なんだよ。薄れさせたくない大切な、さ。なのに他に写真と繋がる思い出が増えて行ったら、ごちゃごちゃになっちまうだろ。それって嫌じゃないのかな」
「他の写真とごちゃごちゃになる…? お前達の部屋が汚いという事か」
「違うっ! そうだけど、そうじゃない!」
シグルドは大声を張り上げて頭を抱えた。どうしてこうなのだろう。自分はからかわれているのだろうか。
「物理的な問題じゃなくて……そうだ、メモリディスクみたいなもんなんだよ。ヒュウガの頭ン中に『写真』ってラベルの貼られたディスクがあるとするだろう。そこにバサバサデータ突っ込んで行ったら、訳分かんなくなっちまう」
「整理しないからだ」
「整理したって、容量に限りもある。そのうち圧縮したり、消したりしなきゃいけなくなる。人ってのは意識しないでも、勝手にそういう作業をしちまうだろ」
「容量〈脳みそ〉が足りないのか」
「お前は、なぁ……」
無意識に握り拳を作り力を込めるシグルドの横で、カーランは相変わらず真面目腐った表情のまま、カメラと一緒に展示されているカタログを手にとり、パラパラと捲った。ポップな色彩が目に痛い。この国に在っては、被写体となるのは専ら人物、人工物であった。父親と母親と、それらに挟まれて立つ二人の子供。四人が皆型通りに微笑み、眩い光を放っている。人が故意に描いた一瞬の幸福。それを永遠にする写真。
「記憶は放っておいても薄れるものだ。それは解る。だが写真は、そうさせない為のツールだ。違うのか?」
カーランの認識も正しい。だがヒュウガにとって写真は単なる記録のツールではなく、誰にも介入されたくない領域、他の何かに汚されたくない領域、こういったものに当たるのだろう。そうシグルドは考えていた。
それを伝えられたカーランは、益々難しい顔になって首を傾げる。
「新しい写真を撮ったからとて、最初の写真の絵が消えたり見えなくなったりしてしまう訳ではなかろう」
根本的な思考回路が異なるのだ、とシグルドは肩を落として曖昧な相槌を打つ。それ以上の説明は、自分には無理だと。部屋が散らかっているから、新しい写真が追加されると最初の写真は消えてしまうのだと言ってしまえば良いかとも考えた。その可能性だって、無きにしも非ずである。
反論を止めたシグルドにカーランはやはり納得行かない様子だった。もう一度カタログをパラパラと、今度は後ろから捲り返し、自問自答のように呟く。
「良い思い出というものを記録として残すのが写真なのだろう。ならば何故、ひとつで満足してしまうんだ。何故それ以上を求めない?」
隣でカーランの手元をぼんやると眺めていたシグルドは、何と無しに耳を通り過ぎて行ったその言葉を反芻し、未だ足りず、もう一度噛み砕いてみた。
「当人が良いと言うなら、そうなのだろうが…俺には解せんな」
パタンとカタログが閉じられる。不要と結論を出し、興味の一切を失ったカーランがくるりと踵を返し立ち去ろうとする。その肩を、シグルドが力一杯鷲掴みにした。
「カメラにしようっ!」
カーランの肩が強張るのを手の平に感じ、それでも構わず、鷲掴んだままの肩を揺さぶりながら、シグルドは繰り返す。
「ヒュウガに遣るの、カメラにしようぜ、な、良いよな?」
「良いよな、って…反対していたのはそっちだろう…? 何なんだ。カメラは駄目なんじゃなかったのか」
不可解というより不服そうに、下唇に微かな緊張を込め頭を傾けている彼に、考えが一新されたと告げ、鷲掴んでいた肩を今度は両手で叩きながら尚捲くし立てた。
「さっきの、ヒュウガに直接言ってやれよ。写真は消えないんだから、安心して、これからも俺たちと良い思い出を、沢山作って行こうぜ、ってさ!」
カーランの言葉は、シグルドの頭の中で反芻されるうち、私情がふんだんに練り込まれ、都合良く改訳されてしまっていた。
なんとなく寂しいと感じていたのは、自分だけではなかったのだ。シグルドは改訳された言葉を再度、眉を寄せてうっとりと噛み締め、頷く。隣のカーランも眉を寄せ、何もかも諦めきった表情で、ため息交じりに頷いた。
「好きにしろ」

カメラと一口に言っても、種類は様々だった。操作が煩雑な代わり、技術さえ伴えば、望む以上の美しい作品が撮れるもの。逆に、仕上がりを気にせず、手軽さだけを求めるならばボタンひとつで扱えてしまうものもある。画像がデータ化され、フィルムを必要としないタイプもある。撮った写真はコンピューター端末に繋いで楽しむのだ。
これは論外だと、シグルドは思う。自分が持ち出したメモリディスクの話そのままである。一瞬で、痕跡も残さず消えてしまうのでは、意味がない。簡単には消えてしまわないもの。手に取って見れるもの、手軽さも必要かと思う。沢山の思い出を気軽に残せるように。
「俺、これが良いと思うんだ」
高級感よりは取っ付き易さを感じさせる、角の無いアウトラインで、正方形に近い、カメラとしては一風変わったフォルム。カラーも様々だ。落ち着いた色合いよりはビビットカラーをベースとしており、若い世代、ないしは子供や子供を含む家族を対象に意識したデザインが目立つ。
「インスタントカメラ? 随分と、レトロだな」
展示品のひとつを手に取り、繁々と観察している。
「そのレトロさが、逆にウケてるらしいぜ」
シグルドが目にするものは、全てが新しい。故に、伝え聞いただけの知識ではあった。
「こっちに、この専用フィルムをセットするんだ。で、ここから出てくる」
「なるほど。現像液がここに…自動現像型と呼ばれる形式か」
カメラをひっくり返してみたり、フィルムを透かしてみたり、興味深く分析を始めていたカーランは、はた、と眼前で同じように興味深そうな顔で己を覗き込んでいる存在に気付いた。
「何だ?」
「いや、珍しく、楽しそうだなぁと思って」
「お前は今日も嫌になるくらい好調のようだな」
シグルドは自分用のカメラも買おうかと、所持金の計算を始めた。カーランの観察記録でも付けたら、なかなか立派な研究ができるような気がした。

カーランによるカメラの分析と、シグルドによるカーランの分析も終わり、さあこれに決めようか、という頃である。
「試しに一枚撮ってみませんか?」
声を掛けられ振り返ると、にこにこと笑みを作った若い女性店員が腰低く立って居た。
「いいの?」
「えぇ、実際にお試し頂いた方が、分かり易いでしょう」
手際よく電池、フィルムをセットし、電源を入れて差し出されたものをシグルドは受け取り、シャッターボタンはここだとの分かりきった説明を聞き流しながら、カーランの方へ向き直る。
「撮らせてくれるって」
「どういうものか、知っているんじゃないのか」
「知ってるけど…せっかくだし。ほら、笑って笑って」
自らも笑みを作ってみせながら、ファインダーを覗き、またすぐに取り下げた。
「……つ、すまんねぇ、もっと面白い顔しろよ……」
「それに決めるんだろう、早くしろ」
せめて先のような表情をしてくれて居ればと思いながらも、無理な注文かとすぐ諦めた。
「ねぇ、お姉さんの事撮っちゃ駄目なの?」
ごくありふれた、一般的な庶民向けの量販店の店員と言えども、制服の内まで気を配った小奇麗な身なりに、透き通ったブラウンの長い髪を、自信たっぷりにきっちりと纏め上げ、上品なアクセサリーをさりげなくあしらってある。
〈アバル〉だなぁと眺めながら、苦笑いを浮かべて手を横に振る店員の醸す気配から、恋人〈食い扶持〉にはならないと判断する。
「撮るならさ、お姉さんみたいな綺麗な人撮った方が楽しいって、思ったんだけどなぁ」
駄目押しとばかりに言ってはみたものの、判断は覆らないと知っていた。表情を見れば、すぐにわかる。ラムズに対して嫌悪感しか持たぬ者か、嫌悪感を抱きながらも好奇心を持ち合わせている者か。
背後から深い溜め息が聞こえる。彼は単に『また悪い癖が始まった』くらいにしか思っていないだろう。その方が良い。余計な気苦労を感じさせたくはない。店員にちょっかいを仕掛けた事を公開した。悪い、癖だ。
「つまんねぇ奴でも、写しておくか」
拗ねた素振りで舌打ちし、振り返り様に、ろくにファインダーも覗かずシャッターを切る。安っぽいシャッター音の後、不器用そうなモーター音がして、フィルムが排出される。
数分で現像が完了するとの店員の説明をオウム返しにカーランへ伝えてフィルムを渡し、どのデザインにしようかと意見を伺う。気の利いた答えが返って来る訳もなく、
「それもそうだ」
と、噛み合わない受け答えをシグルドも返し、店員と一言二言相談を交わす。
「じゃあこれ、お願い。同じ年の野郎に、贈り物だから。そんな感じに、後お任せして良いかな」
「かしこまりました」
営業スマイルとは不変に美しいもので、後ろの男も、多少見習って欲しいものだ。今は不自由なくとも、この先苦労する筈、とお節介な性質がつい頭をもたげそうになる。カーランは退屈そうに、シグルドから受け取ったフィルムを指先にちょこんと摘み、ぼんやりと眺めている。
「出て来た?」
まだやっと、輪郭が見える程度だった。無言で突き返されるフィルムを、今度はシグルドが受け取り眺めながら、キャッシャーへ早足に向かうカーランの背中を追う。代金の支払いを済ませ商品を受け取る頃には、現像は完了していた。
色の載ったフィルムに目を遣り、「繁々と見るものでもない、何せ被写体が」そう思いなおざりに視界から外してしまったシグルドは、またすぐにフィルムを、今度は目を見開いて凝視した。
「ウソだろォ?」
頓狂に裏返った声に、先を歩いていたカーランが訝しげに振り向く。シグルドはフィルムを目の前にかざし、実物と写真の彼とを見比べた。
「奇跡の一枚だぞ……」
何か乗り移っていたのかもしれない。駆け足にカーランへ追い付き、肩や背中をパンパンと払ってやった。

街は既に薄暗く、ぽつぽつと街灯が灯され始めていた。カーランの方も、己の予定をこなすのは諦めてしまったのだろうか、普段よりも緩やかな歩調で足を進めている。
「カール、星」
シグルドの声に、彼も足を止めて頭を垂れる。二人が差し掛かった広場は、底面の一部にクリアパネルが施されており、その部分から空を除き見る事ができた。
モーブに染まる空。街灯よりもずっと微かな光が点々と、鋲を打ち込んだように灯されている。何も照らし様の無い、微かな光。道を歩く為には、街灯より遥かに有益な存在だと、シグルドは知っていた。何時何処で教わったのかは、忘れてしまったが。
「きれいだな」
同意を求めた相手は、星ではなく、そこに隔たるパネルを見ていた。接合部を踵でガツガツと蹴りつけている。そんな行為で強度が計れる筈が無いと、分かっている。それでも、外れてしまったらどうするのだ、と意思に反して不安を覚える。
この足場が崩れてしまったら、そこに立つ自分はどうなってしまうのだろうか。天に向かって堕ちて行く?まさか。では地に?それも許されまい。行く宛ても無く、天と地の間を彷徨い続けるのだろうか。
裁ききれない程の過ちを犯して死んだ罪人のようだ。天にも地にも逝けず、ゆらゆらと行く宛てもなく漂流を続ける我等。楽園に暮らす人間を惨殺し、星をガツガツ踏み付ける。無意味な行為は、最早妬みでしかない。
「産まれた日によって、その人に宿る星が決まってるんだってさ。ヒュウガに宿ってる星はどれかな」
人が勝手に作り出した伝承だ。どんなに親しみを込めた名前で呼ぼうと、星を手に掴むことはできないのに。
「知らん」
そうだ。だから彼の姿勢が正しい。シグルドは小さく笑い、カーランを真似てパネルをガツガツと蹴った。
「カール、誕生日いつだっけ?聞いてない気がする」
「誕生日?」
カーランは下を向いたまま、動きを止めた。そして、再度尋ねる。
「生年月日……俺の、か?」
またしても、大真面目な顔で。
「何だよ、教えたくないなら、別に良いけど……」
「いや……」
一度シグルドの方へ向けた顔を再び俯かせ、顎に手を持っていく。それは深く考え込む動作そのものだ。不振に思い身を乗り出し、口を開きかけたシグルドの前で、カーランがゆっくりと顎から手を離す。
「不味いな、……思い出せない」
「……へ?」
「忘れた」
「……自分の、誕生日?」
カーランが深刻な面持ちで頷く。
「自分の誕生日、覚えてない……?」
今一度、深く頷く。シグルドは、少しもはばからず、盛大に吹き出した。
「何だソレ、誕生日、覚えてないって、忘れたって!」
祝ってもらった事は無いのだろうかと尋ねると、
「あったような……気もする」
との答えが返って来た。顎を指先でさすり、その態度はまるで十数年も会っていない友人を思い出そうとしている三十路男の貫禄だ。
彼も両親を失っている。そうは言っても、たかが数年前の話だ。友人が少ない事は見ていて分かる。然れど、まさか、両親にさえ誕生日を祝ってもらわなかった筈はあるまい。それとも、両親の愛情の薄さが、彼のひねくれた性格を形成してしまったのだろうか。はたまた、何か強いトラウマによって記憶の深層に置き去られてしまったのか。
だとすれば、笑ってはならない。彼は傷付いているのだ。笑いものにしては。
「ぷ……忘れ、っくくく……は、ははっ忘れたって……自分の、誕生日!」
真剣に考え込むカーランの前で、シグルドは腹を抱えて笑い転げていた。地べたを転げまわるシグルドを、通行人が遠巻きに見て行く。彼らにもこの可笑しさを逐一教えてやりたかった。いや、可笑しがってはならないんだ。彼はきっと傷ついて。
「そんなに笑うな」
「ご、ごめ……ぶっ、くくく」
カーランが睨んでいる。口を尖らせ、あからさまに不貞腐れた表情で。その様子が、シグルドの笑いを更に加速させた。
「大笑いしているが、お前の方はちゃんと覚えているのか」
「だって、俺は仕方ないだろ。誕生日以前にさぁ、」
「そうではない。学生証に書いてあるだろう」
「だって、こんなデタラメ、覚えたって……」
言いながら、ポケットの財布を探り、そこから学生証を取り出す。見た所で、何の感慨も抱けない数字の列がある。
「デタラメという訳でもないぞ」
「え……?」
生年月日の記された欄をなぞっていた手を止めた。年は、おそらく正しい。しかし月日は、正しい筈がない。被験体の生まれた日、そのような無駄なデータを詳らかに記録しておく必要性は、皆無なのだから。
「これ、先輩かカールが、手続きの時に適当に書いた日付じゃないのか?」
「適当と言えば、適当だが……書いたのは俺だ」
カーランが経緯を説明する。
年齢は記録が残っていたものの、シグルドの考える通り、月日までは知る術がなかった。その日の日付でも記入すれば良いとするカーランに、ジェサイアが、それでは気の毒だと制止を掛けたのだ。
『せめて何か、少しは意味のある……。そうだ、拾った犬ころなんかには、拾った日を誕生日に当てるじゃねぇか』
用済みの被験体として廃棄されたシグルドを救い連れ出して遣った日。はっきりとした日付を覚えてはいなかったが。
「じゃあ……ここに書いてある日って……」
「大体、だが」
「俺がカールに助けてもらった日で、初めて俺が……」
「大体」
日付をなぞる指に力が込められ、震えていた。頭の中で、その日付を何度も唱えてみる。
「俺、ちゃんと自分の誕生日、覚える」
「そうだな。自分の生年月日くらい、空で言えなくてはならないな」
その日は、歴とした誕生の日だった。
天にも地にも逝けぬ者が集う、何もかもあべこべのこの場所へ、まっさらに生まれた日。全てを忘れ、開き直り、不安定な足場を、平然と踵を鳴らして歩み始めた日。まやかしの灯火を頼りに、星を踏み付け、一瞬の幸福を大切にしようと、真っ暗な記憶を笑い飛ばせた日。
「ヒュウガ、カメラ喜んでくれるかな」
「さぁな」
「俺達の事も、沢山残してくれるかな」
「どうだかな」
シグルドは、先程店で写した写真を取り出し、街灯の明かりで照らし見た。ほんの一瞬を捉えた写真。けれども、シグルドが背を向けていたのは一瞬ではなかった。見透かされているなぁ、と思い、少し悔しく、それ以上に嬉しく、改めて感謝した。
「カール、ありがとう」
歩き出し始めたカーランはちらりとシグルドを見遣るだけで、もう写真のように笑ってはくれなかった。写真に写されている、少し困ったような、優しく暖かい表情では。
きっと自分が見ていない所でばかり、こんな表情をするのだ。こんな表情、彼は作り出しはしない。だからこそ、こんなに。
人工のものよりも、自然が一番興趣に溢れている。クリアパネルの上を静かに歩きながら、写真を大切に仕舞い直した。
「夕飯、外で食おうぜ。なんかこってりしたもの、食いたいな」
「ふむ……旨いかもしれないな」
「だろう?なんか、はしゃぎ疲れたよな」
「はしゃいでいたのはお前だけだ」
「そういえばさ、カールの誕生日も学生証に書いてあるんじゃないのか」
「持ち歩いていない」
「よし。帰ったら、見てみなきゃ」
「帰るって…今日こそは、」
「制服、カールの所置いたままなんだよ」
「……シグルド、」
「一旦取りに戻らなきゃだろ?」
「お前、態とだろう」
「うっかりしてたよな」
「……お前は案外、策士向きかもしれんな」
「え、俺の事、褒めてる?」
「嫌気が差している」
ヒュウガの誕生日も、カールの誕生日も、盛大に祝おう。自分の誕生日も、無理矢理にだって、祝わせてやる。
この地に生まれた事を感謝する日。ともすれば、薄れてしまう感謝の気持ちを、毎年思い起こさせてくれる大切な日。
「やっぱり、誕生日忘れるっておかしいよ。カールもちゃんと覚えるんだからな」
「分かったから、もう良いだろう」
その日が来れば思い出す。何度も、繰り返し。それはまさに。

Birth Trauma 終
ぽぽ子

 


シグラム本出すのですが、うちには見本になるようなシグラム作品が一切無いと思い、急遽作ってみた話です。
元々は写真ネタではなかったのですが…書いているうちに、あれ、写真ネタに…できる!?と方向転換。
写真ネタというのは、7月23日開催のシグバル絵チャで出て来たあの、めぶさんが描かれた困った顔で笑うカールの絵…!
な筈なんですが、筈なんですが…w
これだけ読むと、カールがどんな顔してるのか全然見えてこないですね、しかもちょっとあの表情では…なさそうな…orz
いいんです、書いてる本人の脳内では、カールがあの顔で笑いかけてくれてるんです…!

一応、シグラム本の内容と時間軸が一緒で、あわよくば繋がっていても良いかなぁという設定になっております。
本では、出会い・日常・別れの三本立て、となっているのですが(w 友情・努力・勝利 みたいな、ね…
その内、日常編が、ちょっとこれと繋がってても…良いかなぁ、と。
本の方では、その日常編、カール視点で書いてます。
見た目眉間に皺寄せっぱなしかもしれませんが、意外と色々頭の中で考えてるのかもしれません。
少しでも興味持って頂けたらなーと思います!

本当はこの話も本に載せ……という事も考えていたのですが、
どうにもこうにも、こんな状態なので…w ちょっと…w
こんなしまりの無い話ですが、いちゃいちゃさせられて楽しかったです!

2010.8.13 完成