unknown 2

 

そうした夜を過ごす、初めの頃はまだ暑いと感じた。
もはや床で寝るスタイルには戻せなかったが、一枚の布団の中に二人の人間が籠もると想像以上に中の温度が上がってしまう。背中合わせで眠るのは当然。その中で、壁際で眠ることに決まってしまったらしいカーランは、半身を布団から出し、冷たい壁に触れて眠る日もまだ多かった。稀に、朝になると、身体が一部壁とベッドの間にすっぽりと挟まってしまっていた。
それも初めの頃だけ。季節が移り行くに連れ、壁を這い伝って来る冷気が存在感を増し夜を脅かす。防護の頼みは安物のごわ付いた毛布と、へたった掛け布団の二つっきりで、更に、十分な丈も幅もない。引っ張り合って喧嘩になりながら、一番利になるのは、背中を付け合って布団の端をぴたりと閉じて眠ることと知り、夜が更けて朝が近付き、ぼやけたままの思考でまた喧嘩が起こる。
これまでの冬は、どう過ごしていただろうか。
暖かい背中。首筋がこそばゆく、また喧嘩になる。
末端の冷たさは、暴力にも等しい。
「引っ付けるな……って、言っているだろうが!」
「だって、冷たいんだ!カールは暖かいから良いじゃないか。暖めさせろよ!」
「俺だって暑いわけじゃない!」
「本当、勝手だよ」
「どっちが!」
跳ね除けても跳ね除けても懲りる様子がなくて、ひそひそ声で怒鳴りつけると、ひそひそ声の荒々しい反論が返って来て、その晩もまた口論に。それもいい加減に決着を付けなければという時に来ていたのか、虫の居所という問題だったのか。先に手を出したのはどちらだろう。冷たさを暴力に触れてきたのはシグルドだったが、跳ね除け、その時に爪で相手を掻いてしまったのはカーランの方だったかもしれない。
「痛っ」
とシグルドが、痛みそのものよりも驚きの為に大袈裟な悲鳴を上げ、怯んだカーランを、
「引っ掻いた」
と責め、反撃を始めたのだった。
シグルドは、両手両足に武器を備えている。
「痛いぞ、この……っ!」
「あっ、馬鹿」
背を向けていたカーランは、体勢からして分が悪かったのだ。向き直った時には、既にインナーに着ていたTシャツの裾を掴まれ、引っ張られるところだった。
「やめ、って……馬鹿、お前っ!」
「うりゃっ」
「ひッ……ばっ、んの…っ!」
「うお、あったけぇ」
「暖かいじゃな…っ、の、離せ…!馬鹿くすぐったいだろう!」
「冷たいの慣れた?」
「怒る、ぞ…っ、あっ離せと、この、怒る……と、言って!」
「こっちも冷たいんだよなぁ」
「馬鹿、馬鹿、シグルドっ!」
「ほら」
「いッ――!」
壁に付けて置かれた狭いシングルベッドの上で暴れれば、そうなることは当然だったのだけれど。
シグルドから逃れようとしたカーランの肘が、壁へ強かに打ち当たり、大きな音を立て、二人が息を飲んで静止する。それで何事もなければ、そのまま反省し静かにしたつもりであったのに。
「うるさいぞ!」
それまでのやり取りも、存外に大きく響いてしまっていたのだろう。怒鳴り声は、壁の向こうの部屋からだった。薄い壁が強打音と共に、微かに振動する。
「カール……ほら、怒られた……」
「なっ、お、お前が…っ」
口論になれば、また抑えが利かなくなるのかもしれないのだから。言い聞かせ、納得行かないながらも揃って口を噤み、でも最後にひとつだけ。
「いつまで、手、入れている」
いつの間にかシグルドの手は暖かくなっているようだった。
眠りへ意識が遠のく頃、おずおずと伸ばされた足も初めの時ほどは冷たくなく、仕方ないと、思ってやれる程度だった。

明け方の冷えは、全身に凍みこんだ形で知らされる。浅い眠りの中で、何かの拍子に気付かされ、暖を求めるのか眠りへと戻るのか。ほんの小さな動作で暖は得られるはずなのだけれど、醒めたのは思考の一部のみで、手足を動かすには他の脳回路も叩き起こさなければならない。ふらふらと、彷徨ううちに、隣からの動きの気配で段々と靄が晴れて行く。
「さむ……」
「…んん……」
カーランの訴えに、シグルドも呻いて同意を示し、頼り無い掛け布団がほんの数センチではあるがずれてしまっていたらしく、引き上げ掛け直した。
眠っている間、身体はいわば動力制御モードで稼動していたようなもので、それだけではすぐに温まる気配は無い。シグルドも同じく感じたのだろう。手っ取り早く暖を取るにはと、寝返りを打ち、カーランの身体を迷いもなくまるで当然のごとく、羽交い絞めにする。再び睡魔の靄が立ちこみ始めた思考は、それを避ける選択肢を用意しようともせず、極めて楽観的な答えしか寄越さない。
ただ例外的に、無視できなかったのが、
「……グル、当た…てるぞ…」
「ん……むぅ、…ぜっこうちょ」
シグルドが寝息を立て始めるよりも、カーランの意識が夢の中へ埋もれて行くのが先だった。

同じ部屋で暮らし始め、半年が過ぎていた。食事、睡眠、そして排泄習慣に至るまでが筒抜けの生活で、個々各々に与えられるべきプライバシーはいつしか二人単位にひとつを所有する状態で、それをストレスに思うのはおろか、疑問視すらしなくなっていた。しいては、狭い一人用のベッドまで共用しているのだ。然るべき状況で、極日常的な生理を見せられたからとて、過剰に動揺も何も、しなくなってはいたのだったが。
その時は、これまでとはまた勝手が違った。こればかりは、動揺、という言葉で以ても片付けてられはしない、事物だったのだろう。
その事の起こりに際して、カーランの意識に先ず在ったのが、寒い、眠い。次いで楽観的に弾き出されたのは、暖かい、と、そして心地良いと。結果、間も無く眠りが意識を攫う。先に眠りから微かに醒めた時に、ぎょっとして強張った首がその時にカクリと落ち、その小さな衝撃で、楽観的で悪質な夢が逃げ去る。
「ん……あ、……え…何……」
それは初めての感覚でもなかったが、慣れた感覚ともまた違って、その違いにじれったさが生じる。じれったいと感じるそれは、明らかに不快とは異なる。そして自分の手によって与えられているのではない。
「何や……っ、ん、の……ッグルド…!」
蹴りつけた対象が、それによって思い出したように体重を掛け、絡み付いて来る。衣擦れの音は続く。
「ふっ……ぅ、ば……ッか、離せ、」
前後運動を繰り返し衣擦れの音を生み続けている腕を押さえる。
「シグルド…っ、聞こえてるのか、ふざけ…っんなら、怒るぞ…っ」
首筋に感じたこそばゆさに、ぞくりと身体が粟立つ。じれったい。もう少し、別の、触れたいのは、そこではなく。
「……っ、ん、は……っあ、か、この、……っ」
取り押さえた腕に込めた力が、別の趣旨で働かせようと動く。悪質な夢が、また思考に靄をかける。楽観的に、流れを導こうとする。
「んっ、ん……ばか……ッ、シグルド…っあ」
寒いとか、眠いとか、そして暖かいとか、心地良いとか、その先に何処へ続くのかも慣れた道筋に辿り付き、乞うてさえしまう。状況は上手く雲隠れを果たし、靄の中に。もたらすのは自分の手の動きでさえあったし、布団の中は温くて、その外にある冷えた空気の中に曝されるのは、御免だ。
「はッ、……っ、く、あ……ッ!」
身体が痙攣する程に、強張る。道筋通りに辿り着いた先には、満足感さえ待ち受けていて、色を失った視界は役に立たず、目を閉じた。
また眠りの続きを楽しもうか。
そう考えたのは、一秒間にも満たなかった。
カーランは、閉じた目を見開く。咽がヒクリと鳴ったのと、腕が布団を跳ね除けたのと、背後から叫び声が聞こえたのも、全て同時だった。
「うわ、あ、あ、あぁっ」
「………っ、の……ッ」
「のっ、のっ……のん……っ、うわっ、あっ……ああぁ……」
「う、う、うわあじゃ、あ、ない…っ!お前…、」
「あああっ」
「ち……ちり紙!」
「わあああっ」


ゴウンゴウンと回る洗濯機の前で、カーランは膝と頭を抱え座り込んでいた。
シグルドは喚きながら床をのた打ち回っていたので、放ってある。のた打ち回りたいのは、自分の方だ。
「なっ…何…、何……」
一人でも呟いてでも居なければ、叫び声を上げそうだった。思考は、混乱を極めていた。
頭は手を付けられぬ位に熱されていく。冷静を努めようとするほど、言い訳のできない現実が露わになって行く。靄はすっかり、晴れていた。洗濯のよく乾きそうな、ぴいかん晴れ、眩しくて目を当てられぬようなお天道様。
あれは極日常の生理、だったのだろうか。
用を足す最中に便所の戸を開けられるとか、そのレベルではない。経験は無いが、風呂場で一人自慰行為に耽っていたとして、その場を目撃される。おそらくそれでさえ、今起こった事と比べれば取るに足らない事件だ。
安物の、ガタゴトと揺れ動く洗濯機が、カーランの心中を推し量り、彼の代わりにゴンゴンと頭を殴ってくれている。
特別に、涙を流しても許される時のように感じた。
「カール……」
目頭がじわり潤ってきた頃、タイミング悪く聞こえてきた声には、空気さえ読めぬのかと恨み辛み重なる一方だ。睨まれたシグルドが、ドアの隙間からたじろぎながら続ける。
「向こう……暖房付けたよ……」
暖房。今以上に暖めて、どうするのだ。冷やす方法を模索しているというのに。
「何か……言う事はないのか」
シグルドの歪んだ顔には、泣きたいのはこちらだとわめき立てたくなるが、口にしなくとも、きっと同じ顔をしているのだと思う。
「……ごめん」
「ごめん?」
「って言っても許されないよな」
当然だった。
「何て言えばいい?どうすれば良い、俺……」
しかし、どうすれば良いのかなんて。
「カールの気の済むようにしてくれよ……殴っても、そうだ俺、出て行こうか……あっ、でもそうしたら……」
どうすれば、気が済むのか、自分でも分からない。
「同じ事……」
「え?」
「同じ目に遭えば、良いんだ、お前も」
分からないままだったのだが、口が、言葉をそう選んでいた。
同じ目とは、どうしろと言うのだろう。この場で、自慰でもしてみせろとでも言うのだろうか。それも“同じ”ではないように思う。
立ち上がった足がずんずんと勝手に、シグルドへ近付いて行く。
「ちょっ……お、同じって、」
鼻先まで辿り着いて、手を伸ばしていた。
「同じだ、全く同じ事を!」
「ちょっ、ちょっと、っ、カール…!」
「お前が同じこと、俺にされてみれば良い!」
「おっ、ちつけ、って、えぇっ……えぇっ、待っ!」
シグルドは引き攣り笑いを浮かべた表情に恐怖も織り交ぜ、必死に、ズボンのウエストを両手で引き上げている。擦り降ろされようとしているのだ。カーランの手によって。猛獣のように、鼻に皺を寄せた、本気の表情のカーランの手が、息の根を止めるまでは離さないとばかりに、食らい付いている。
「それしか、無いだろう!」
「そっ、それは、ちょっと待て、待てよ、まず離せ!」
「離せ?同じことを、俺も言った気がするぞ。して、お前はどうだったんだ」
「いや、違……っ、まず落ち着……!」
口での押し問答と、体でもシグルドを追い詰め、とうとう背中が壁に付いたらしい。合図だったように、殊更に力を込めて引っ張った。シグルドの手は滑ったのか外れ、漸くひとつ達成となったようだった。
何か考えていたのでもない。そこまで勢いで動いて、我に返ってしまうのかもしれなかったのだ。
そこを再び非現実的な場へ引き戻してしまったのは、またシグルドである。
必死に抑えていたウエストから外れた手が、次に向かったのはカーランの両頬だった。がっちりと、両側から挟みこむ。見開いた先に、鼻があった。唇が触れたと知ったのは、それから離れた後に。
「……分かった。一方的にカールのだけしちゃったのが、まずかったんだ。これなら同じの同士で、平等だよな」
何を言っているのか。そう尋ねようとしたが言葉にはならず、行方知らずの唇が戦慄くばかりだ。
「平等、……だって…?」
そんな訳が、あるはずない。カーランはシグルドのズボンから手を離し、彼がするのと同じように、その顔を鷲掴んだ。
「今のが、平等なわけ、ない!」
引き寄せて、そうして、噛み付いて、その先まで。彼が再び犯した行為は、一方的だった。だからこちらも、そうやり返し、するとまた平等でなくなり、シグルドが再び仕掛けて来る。
どのくらい不毛な遣り合いが続いたのだろう。洗濯が終わる頃には、済んでいたがしかし、頭の芯まで冷えそうな冬の朝に、シグルドはズボンを降ろされたまま。彼はその後すぐに、腹を下した。


unknown 終

11.4.20