もうつく と、平仮名ばかりの4文字がシグルドの手元に届き、遅れる事数分の後。本体も到着したようだ。 カンカンと鉄の階段を軽快に駆け上がる音は一度、ガゴーンと鈍く大きく響く音と共に止まりもしたが、またすぐにカンカンと再開され、ドアを開き顔を覗かせたシグルドは、心なし横に傾きながら足早に向かって来るカーラン本体を、無事確保する事に成功したのである。 「ただいま!」 こんな風に憚りもせぬ大きな声で、自分の方から先に挨拶を放つなんて。彼はなんとも上機嫌のようだった。 スカスカでベコベコなドアを開き待っていたシグルドは、星の瞬く夜空に気遣い、カーランよりかは声を落として応え、迎え入れる。しかし今宵は、この時間になっても街は賑やかなのだろう。通りに出れば、街路樹に投げやりに引っ掛けられた無数の電球がチカチカと点滅していて、星も見えないのだろう。 鼻息荒く入って来たカーランは右の脇に大きくいびつな包みを抱え、左の肘の辺りにはまたいびつな形をした白いレジ袋を引っ掛けている。 「椅子を、買って来た」 「チキンは?残ってた?」 「ああ心配要らなかったな、まだ山と詰まれていた。ただ家具屋が閉まっていて、また今度にしようかと思ったんだが、雑貨屋に、割と良い椅子があったんだ」 レジ袋を覗くと、こんがりと焦げ目の付いた骨付きの鳥モモ肉と、『メリークリスマス』と書かれたシールが斜めに貼り付けられた、カラフルなサラダのぶち込まれたパックが見えた。 そのどちらも、無茶苦茶に片寄っている。 「ケーキは?」 「その下に入って要るだろう。造りは心配だが、なかなかデザインが良いんだ」 この分だとケーキも炒り卵のようになってしまっているだろう。 「デザインも何も、これじゃあ原型留めてないんじゃないか」 溜め息を吐いて、袋の持ち手をカーランの腕から抜き取り、「なぁ」と呼び掛けて漸く、自分に向けられている鋭い剣先に気付いた。 「え……っと、椅子?」 物騒な目つきだ。シグルドが自ら格好良いと思いチャームポイントとしている特徴的な前髪を、バッサリと根元から切り落としてしまいそうな、鋭さだ。 「椅子買って来るなんて、言ってたっけ?」 「あったら良いと、言っていた」 「そ、そうだったっけな、ごめんごめん。ありがとうな」 「……“俺が”、座る椅子だ」 カーランがスコンスコンと脱ぎ捨てたローファーを反射的にササッと揃えながら、狭い玄関ですれ違い様、ぶつかった腕をまたこれも反射反応で、掴んでいた。 互いの背が壁に張り付いてしまうほどの狭さ。カーランの抱えた包みが壁に当たり、鈍く重い音を立てる。彼が階段を昇って来る際に聞いた奇妙な音はこれだったかと気付く。 「外、寒かったか?」 「12月だ。寒くない日などない」 機嫌が階段を転げ落ちて行ってしまった。 「な、そんな顔するなって。クリスマスだぜ?」 「俺だって、でもお前が、」 そうかそれで今日なのかと、大きな荷物に目を遣ると、カーランも視線の先を辿り、益々のむくれ顔になる。そんなつもりではないと、だとすれば『自分へのプレゼントだ』とでも主張したいのだろう。この時期に、華やいだ閉店間際の雑貨屋で、どう言ってこの梱包を頼んだのだろうか。粗大ゴミ置き場にそのまま置いても違和感のないような包み方を。 「遅くまで寒い中、お疲れ様」 赤く染まった頬は見た目に反して冷たく強張っていて、耳はもっと真っ赤だというのにまるで血が通っていないかのようである。 「稼ぎ時だ、この時期は」 「12月だからな」 笑って言うと反論に口が開く。生菓子のごとく冷え切った両耳を、手の平でぴたりと塞ぐ。可笑しなもので、そうすると、塞いでもいない口から何も発せられなくなってしまうのだ。 「やっと、帰って来たね。おかえり。僕のサンタクロース」 大きな口の動きでゆっくりと、小声に。聞こえては堪らないから、でも伝わって欲しいから。 鼻先も冷たい。唇も冷たい。 「メリークリスマス」 口の中だけは、シグルドのよりも、ずっと熱かった。 言葉は一字一句正確に伝わってしまったのかもしれない。 「受験生はクリスマスに浮かれてる暇などない、一分一秒でも、勉強しろ!」 自分の方からも舌を絡ませて、まさにその舌の根も渇かぬ間にそう怒鳴りつけたカーランは今、手狭な台所でロースト・チキンを電子レンジにかけている。布切れのような、形ばかりの座布団が2枚向かい合わせた間の、意図せずに卓袱台返しが出来てしまうちゃちな折り畳みテーブルの上を、袖でサッと拭って、彼が戻って来るのを単語帳を捲りながら待つ。 進学を控えた高校3年生に、クリスマスは来ない。推薦入試で内定を貰ってでもしていない限りは、アルバイトを詰め込んでここぞとばかりに生活費を稼いだり、その帰りにスーパーの総菜コーナーの盛況具合に同情を寄せてみたり、椅子探しに家具屋や雑貨屋を梯子したりはできないのだ。恋人の手を握り締めて見つめ合う代わりに、単語帳を握り締めて文法と見つめ合わなければならない。せいぜい夕食のメインをロースト・チキンに代え、食後にケーキを食べるくらいが、クリスマスらしい、最大のお楽しみだろうか。 「来年はちゃんとクリスマスやろうな」 言ってはみたもの、昨年一昨年はどうだっただろうか。 「ちゃんと、って何がちゃんとなのだか。教会へ賛美歌でも聞きに行くか?」 その疑問もある。“ちゃんとしたクリスマス”をやる。勿論カーランの皮肉を実現させるのではなく、この国の若者らしく、だが。その若者らしい“ちゃんとしたクリスマス”を思い浮かべ、シグルドは口を噤んだ。カーランも黙り込んでしまっている。 二人の間では、暗黙のうちにタブー視されているのだ。 年頃の者達にとっては、恋人と二人きりで過ごすのがクリスマスの過ごし方だ。街を歩いてイルミネーションに感激の声を上げて、奮発したディナーを見つめ合って楽しみ、予約したホテルで普段よりちょっと丁寧に、エッチする。 二人は恋人同士だとはっきり意識した事はなかったが、随分前から、諸々の事情あって一緒に住んでいる。ベッドはひとつしかない。一緒に寝ている。理由なんか考えた事もないが、キスをする。キスすれば、舌だって使う。もっと告白してしまえば、諸々、お互いに触ったり、舐め合ったりもする。しかしそれで全部だ。そしてその関係を続けながら、それぞれ異性の恋人を持っていた時期もある。今は二人共他に相手はいないが、偶々で、そしてだからと言ってこんな事を考えるのとも違う。 どちらとも言い出した事はなかった。なんとなく、避けてしまうのだ。こんな風に。 「自分ばっかりクリスマスプレゼントなんか買って、悪いな、とか思わなかったのかよ」 少しほっとしたような表情を見れば、やはり言い出さない方が良かったのだと思ってしまう。おそらく、向こうも、こんな状況を何度か経験しているのだ。どちらも“それ”を嫌だなんて、思っていないはずなのに。 「別に自分だけの為じゃないだろう。むしろ、お前の為に使うんじゃないか」 意地を張るのはやめたのか、忘れているのか。そこは敢えて突つかなかった。この話題は本当は、回避のつもりで繰り出したのではなかった。 「今日から、家に居る間はずっと、あれに座って監視してやるからな。鼻くそほじってる暇だって、与えないからな」 「ははは、頼りにしているよ」 「今の時期でまだ俺に頼るようでは、困るんだ!」 カーランはクエイク・ケーキの中から救助した苺を口の中へ放り込み、フォークまでをガジガジと噛む。彼の苛立ちは、言い様もない程の不安から来ていた。シグルドが抱く以上に、それは大きいのだろう。不安を和らげるには、シグルドが一心不乱で受験勉強に励む以外に術はないが、完全に打ち消すことは不可能である。どうにもできないから、苛立つのだ。当人ですらない彼にとっては、尚の事。 「カーランの方が息抜きが必要だ」とか「別の事を考えた方が良い」とはまさか言えないが、「クリスマスだから」という浮かれた言い訳を付ければ通ってしまいそうな気もした。魔法のように都合の良い夜らしいから。 ケーキの残量を横目に確認しながら、シグルドは部屋の端へ這って行き、衣装ケースの一番下、乾電池やら昔のケータイ電話やら、CDやら、雑多なものが無茶苦茶に放り込まれた段を引き出す。そこから今日また新しく放り込んだばかりの、ティッシュボックス程の大きさの箱を取り出した。貼り付けられた宅配伝票。品名の欄には『ガーデニング用品』とある。アパートのベランダは、洗濯物を干す以外の事はしたことがないし、狭すぎて、何もやり様がない。 「別にそんなつもりで買ったんじゃないんだけどさ。丁度、クリスマスセールとかやってたんだ。今日開けるつもりも、なかったんだけど」 通信販売で購入した、と箱を見せて告げただけでカーランの目が釣り上がる。「一分一秒でも」「まぁまぁ」通販は、良い。箱を開ける瞬間とは、何が入っているのか知っていてもドキドキするのだ。 知らなければ、もっとドキドキするだろう? 釣りあがった目の奥から透けて見えている。「でも気になる」というカーランのドキドキが。 「カールが、俺の為に使う自分のプレゼント買ったなら、俺もそういうの、あっても良いよな?」 いいから開けろ、という目で品名を見て、訝しんでいる。勿体ぶって、彼のすぐ傍まで戻った所で背を向け、隠すように抱え込んで箱を開ける。ガムテープをバリバリ。勿体ぶっているのではなく、本当は、怖かった。カーランの反応を見るのが怖い。同じ思いで居てくれていると、信じているが、あの表情を見ては。 箱を開けると緩衝材の発泡スチロールに埋もれて、緑色の不織布の袋があった。赤いリボンまで掛けられている。カーランが抱えて帰って来たクリスマスプレゼントとは大違いだ。中身が中身だけに、気恥ずかしい。 背後から身を乗り出し、シグルドの肩に顎を乗せているカーランをチラリと見遣ってから、また体をずらして彼の死角に身を移しながら袋を開く。その種ではよく見る、もっともポピュラーなタイプのものだ。色は白色で、タツノオトシゴの奇形のような。しかしカーランは、それ自体の存在を知っているだろうか。いや、まず知らないならば、その気は無いと、いう事かもしれない。 「これは別に要らないかとも思ったんだけどさ、単品で買うよりもセットの方が安かったんだよ」 言い訳は何とでもできるだろうか。思い切って、取り出し、カーランへ押し付ける。酷くぶっきらぼうになってしまった。押し付けられたカーランは、パネル状のパッケージを両手に持ち、まるで回覧板でも受け取ったような絵面で固まっている。おや、何か気になるお知らせでも、回って来たのかい? その硬直は、どの理由なのか。パッと見で分からず分析中なのか、シグルドがどういうつもりなのか瞬時に理解し、混乱しているのか。怒っているのか、嬉しいのか、悲しいのか、恐ろしいのか。 「考えもしなかった、なんて言わないよな?カールだって、なんとなくでも、そういう事考えたりしただろ?」 これでは責め立てているようだ。不安に苛立ち、そんな自分が嫌で、涙が出そうだ。どちらでも良い、合否の判定を、早々に告げてくれ。 「………これは、」 シグルドが今にも発狂しそうになっている中で、カーランは漸う口を開いた。 「これは、お前が、その………ひとりでする用か?」 シグルドの手にあった、セット販売の片割れの品が、ゴトンと落ちカーランの膝元へ転がり着く。下部がラッパ型に広がった円筒形のボトルはゆっくりと拾い上げられ、丁重に、シグルドの手へと返される。先に受け取っていた回覧板も、お返しする。 「お、おれ、勉強…しなきゃ!やっべーよもう12月終わるし時間ねーよ!」 「待て、シグルド、いや……ええと……」 「いい、忘れてくれよ……っ、いい、もう、俺は忘れた!すっかり忘れた!生まれ立ての原初に戻った!」 「待て、おい、待て!受験生が生まれ立てレベルまでカラッポにしてどうする阿呆が!」 立ち上がるシグルドにしがみ付き引きとめたカーランは弁解の言葉を探すが、なかなか見つからない。シグルドは半べそをかいていたが、カーランも実は似た様な状態だった。とりあえず座らせたシグルドの膝を押さえるように跨ったカーランは、一瞬の語気の強さもすぐに一転、向かい合いながら目を合わせる事さえできずにいる。 「それはその……俺に使……の、お前の……とか、言った……か?」 シグルドは首を縦に振る。 「と、いうことは、つまり……」 「泣かないでカール」 「泣いているのは貴様だ鬱陶しい!」 涙が伝った頬に張り手が打ちかまされた。 「考え、なくなんか、なかったさ。しかし、それは……」 うな垂れるカーランをシグルドは鬱陶しく抱きしめ、鬱陶しい言葉を掛けた。 「いいよ、考えてくれたってだけで、嬉しい。俺もよく分からない。カールと俺が、そういう…事、して良いのか、して良いものなのか、分からないけど…」 カーランの身体がひくりと強張る。お互いに鬱陶しく、鬱陶しい二人が全ての狭い部屋では、涙を隠す必要も無いらしかった。 「仮にして良いものだったとしたら、俺は、って思って、それだけ、知って貰えたら良いかな、うん。ごめん、突然……」 二人で腕を回しあって抱き合って、しかしいくら力を込めれどもまだ遠く、隔たりがあるように感じる。衣服がどうとか、身体が繋がればとか、そんな問題ではないのだろうが、何かあるのだ。手放しに、相手を求めたり求められたりができない理由が。それが取り払われた時には、身体を、なんて思わなくなるのかもしれないけれど、おそらく本当に取り払われる時なんか永遠に迎えられなくて、だからせめて、と思うのかもしれない。 「………受かったら、だ」 「え?」 「前期。前期で受かったら。そうしたらだ」 「そうしたら……って、」 カーランはシグルドの胸元で涙も鼻もぶしゅぶしゅと言いながら拭うと、顔を上げてキリッと睨み付けた。 「それまで余計な事を考えるな!パソコンもケータイも禁止だ。一分一秒でも、勉強!分かったか!」 腹の底から応と答えたシグルドは、椅子が二つ並べられた机へ、一分一秒を惜しんで向かった。残ったケーキは勉強しながらでも、左手で口へ運べるので、決して妨げにはならない。 二人が関係を手放しに続けられない理由のひとつには、目下置かれた、高校三年生という立場があった。 明日を包んで、君への贈り物に。 終
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2010.11.28