高等部への入学で、少年達の世界は急激に広がった。高い壁に囲われ大切にぬくぬくと育てられていた彼らの元へ銘々に、縄梯子が落とされたのだ。見上げる先には、今までは彼らを微笑みながら見守り、保護していた大人達が、手招いている。もう君たちも大人なのだから。こっちへ来なさい。そして、我々の世界を見なくてはならないよ。
演習と銘打ち、項目として用意されてはいるものの、内容は未だそのような意味合いのものばかりだった。
一年、二年上の級を進む先輩達の行う演習とは比べようもない。軍内施設の中で行列を作って、まるで園児のように、引率のセンセイの後をひたすら付いて歩く。列も尾に近づけば解説など聞こえない。出来たばかりの友人に、なんとか自分を知ってもらおうとぺちゃくちゃと喋りかけるのに必死だ。
それでも、内部に勤務する大人達と、自分達が纏った制服の相似性をしきりに確認しては、心ばかり胸を張るのだ。何より、さっぱり理解のできない施設群(センセイの説明が聞こえないのだから、仕方がない)をこうして、是非見て下さいと招待されている自分の勇姿を。家に帰ったら、ママの分からない話をパパに持ちかけてみせよう。パパの満足気な顔が浮かぶぞ。すっかり拗ねてしまったママには、制服が皺になってしまわないように、アイロン掛けの仕事を言い渡してやるんだ。
「おい、見てみろよ。人が詰め込まれて行くぞ」
「馬鹿だな、<人>じゃないだろ。<ラムズ>だよ」
馬鹿だと言われた生徒は少しむっとした表情になりながらも、父親が軍の要職に着いているらしい友人の解説を、大人しく拝聴した。
「ここに居るって事は、実験用なんだ。けどアレはどう見ても、もう使い物にならないな。廃棄処分になる所さ」
解説を受けた生徒も頷きながら、
「そうだな、どう見ても使い物にならない」
とオウム返しに呟いてみせた。そして若いセンセイに尋ねてみる。
「廃棄処分って、奴らどうなるんだ?」
センセイは呆れ顔で答えた。
「本当に馬鹿だな。便所に流した糞の行き先なんか、知りたいのかよ」

そこはまさに糞溜めだった。
実際に、つい先ほどまで寝食の場も便所も区別のない棺桶に長時間詰め込まれて居たものが数多集められているのだから、そのものの臭いがきつく充満していた。その後再処理の為に洗浄プールを通される事を思えば、何も知らぬ生徒の例えも、大きく外れてはいない。形を変えてまた口に入るなど、綺麗な食卓に付く前に考える者は愚かでしかない。
その知らなくても良い光景を前に、楽しい行列を外れた生徒が一人、立ち尽くしていた。
どうして辿り着いてしまったのか。
偶々、道を見つけてしまった。偶々、開かないはずの扉が開いてしまった。偶々、誰にも見つからなかった。
その幾多の偶然が、彼、カーラン・ラムサスには、一セットで揃えて用意されていたのかもしれない。

その光景を前に、立っては居るものの、果たして“見て”いるのかどうか。青ざめ、焦点の定まらぬ瞳を瞬きさせる事すら忘れた様子で、しきりに何かを口の中で呟き、立ち尽くしていた。そして不意に、意識を呼び戻す。
弾かれたように肩を震わせ、カーランは足元を見た。
手、だった。
血液か、糞尿か、判別の付かぬ汚物のこびり付いた手が、彼がほんの数週間前に支給されたばかりの真っ白いブーツの先を掴んでいた。反射的に足を引き、毒蜘蛛でも潰すように躊躇いも無く踏みつけていた。
それでも手はまだそこにあった。糞溜めの中から伸ばされた手の先には、しっかりと五本の指が付いており、ぶるぶると痙攣しながらカーランの立つ地を掴んでいた。
そしてもう一本、手が伸びてくる。腕が二本、あるのだ。片方の手にも、指が五本付いている。頭が見えた。丸い形をしていて、毛髪が生えている。
二本の腕、合わせて十本の指、変形していない丸い頭。気が付くと、カーランはその腕を掴んで、必死に引っぱり上げようとしていた。
頭の下には身体が付いていた。足も二本、あった。足の先には五本ずつ指が付いていた。何ひとつ欠陥がない。全て揃って、ここまで大きく成長した完成体が、廃棄されている。信じ難い事実を受け入れられず、カーランは引っ張り上げた躯体を念入りに点検し始めた。
頭には耳が二つ付いていた。口も付いている。鼻も付いている。呼吸をしていた。目も二つあった。閉ざされた瞼に親指を押し当て、無理矢理開かせる。黄味がかった白目が、ぬたり、と蠢いて、ブルーの虹彩も食い潰すほど真っ黒に開いた瞳孔が、カーランの姿を捉えた。
引き攣った喉から洩れた息が、ヒュッと高い音を立てる。

その日は新しく下ろしたばかりの靴を履いていた。
ママが選んで、パパが買ってくれた、真っ白い靴。どうしてこんな日に限って。愚痴を呟きながら、カーラン・ベッカーは塵溜めの中を慎重に歩いていた。そこを埋め尽くしているヘドロが跳ねて靴を汚さないよう、慎重に。
振り返ると、靴底の模様がくっきりと残っていた。その靴底が汚れるのさえ許しがたいのに。そして随分と奥へ来た事を知る。どうしてこんな所に足を踏み入れてしまったのだろう。しかしここまで来たら、戻るのも同じだった。どうせこのヘドロの上を歩いて戻らねばならないのだ。
そもそもこの汚い物体は、元は何だったのだろう。堆く積まれたガラクタの中には、判別できるものもあった。できないものが、ほとんどだった。ここへ棄てられたら、全て塵なのだ。元はカーランの家にも置かれているような、綺麗な調度品だったかもしれない。美味しい夕食に変わる食材だったかもしれない。ここへ紛れ込んだら全て関係なく、塵だった。
カーランは不意に不安を覚え首を振る。大丈夫、まだ塵にはなっていない。靴も綺麗なままだった。靴底も、帰って念入りに洗えば、元通り綺麗になるはずだ。言い聞かせて足を進める。
塵と化したガラクタの中、ふと何かが動いた気がした。鼠だろうか。己の近くにも居たら嫌だと思い、足元を確認する。周りに動くものはなかった。また気配のした方に目を遣る。やはり、何か動いていた。鼠ではない。もっと、大きい何か。
「仔犬…?」
そのくらいのサイズだった。違いない。カーランは知らず早足になり、そちらへ向かっていた。可哀想だ。こんな汚い所に棄てられて、可哀想。きっとまだ産まれたばかりの仔犬で、自力で外へ出られないのだ。ここに居たら、本当に塵になってしまう。
「おいで。僕と一緒に、家に帰ろう」
相当近くへ来ても、塵溜めの中はほの暗く、その姿を確認できなかったのだ。
もう一度「一緒に」と繰り返し、身を乗り出して、覗き込む。
丸まった背中に体毛は無く、つるりとしていた。代わりに頭から首筋にかけて、逆立ったタテガミのようなものが生えていた。
蠢いていたのは、犬、ではない。
「……ァ、ァ、ァ」
腕が二本あった。足が二本あった。ヘドロにまみれて汚れたそれらの先に、小さな指が付いている。丸い、頭がある。目が二つ、付いている。大きな大きな、まんまるの、金属のように鋭く光る眼球。
「た、た、たすけ……!」
鼠ではない。犬でもない。赤ん坊のような、喉奥から搾り出したような奇声が聞こえた。しかし、人でもない。あれは何なのか、生き物と呼んでいいのか。違う、化け物だ。塵の化け物だ。
足が窪みに嵌り、体が前方に傾く。反射的に踏み出した足が、グチャ、と勢い良く地面を踏みつけた。
汚れてしまった。靴が、靴が、靴が。真っ白い、パパが買ってくれた靴が。塵になってしまう。せっかく僕の為に、選んでくれたのに。
「ママ――!」
最後の叫び声はどちらが放ったものなのか、既に区別が付かなくなっていた。

泡を吹いて失神し、すっかり脱力した躯体を腕に強く抱き、カーランはその場に座り込んでいた。支給されたばかりの白い制服が汚れるのも厭わず。
抱き上げられる事もなかった己の半身の代わりに、欠陥も無く大きく成長した完成体を、胸の中へ、まるで仕舞い込もうとしているようだった。

唯一の成功例として日の目を見、人々の前に崇められる存在として現れ、堂々と張るはずだった胸の中に。

巡り合わせ 終
ぽぽ子


うちのシグラムはいつも融合しそうになってギリギリで堪えてる。
このまま書いてたら多分いつか本当に融合しちゃう。

10.11.02 完成