満天の星空の下で

 

昼は外を跳ね回り、日が落ちてからやっと家に帰り、母親のこしらえたご馳走をお腹一杯に詰め込む。こんな、ごく健全な子供でも、どうしても眠れない夜というものが稀に訪れる。カーランの子供の頃の記憶として鮮明に残っているもの、中でも一番古い記憶はその夜の事のように思われた。
布団に入り気が付けば朝になっている。眠り方など考えた事もない程、小さく無知な子供だった。分からない事があれば両親に尋ねる。それ以外の術は知らず、また両親は絶対的な存在だった。
眠れない。初めて対面した種の困難に気付くと、カーランは両親に助けを求めに、ベッドから降り部屋を出た。真っ暗な部屋、廊下、その先の両親の部屋。初めて探検する夜の世界は、不思議なくらいはっきりと見通せた。目的の扉の前までも、簡単に辿り着いた。
ドアノブに手を掛けようとした時、何故だか、初めて躊躇いの気持ちが起こった。伸ばした手を引っ込めた瞬間、追って理由を知った。
男の猫なで声が聞こえた。聞いた事のない、それは、父親の声だった。息だけを漏らして笑う女の声は、母親の声だった。
何故躊躇ったのかは分かった。何故躊躇わなければならないのかは分からなかった。父と母の声を発する、自分の知らない男と女が扉の向こうに居た。カーランはただそれだけはっきりと理解し、また理由も分からず無意識に、大きな足音を立てて部屋へ戻った。強く、部屋のドアを閉めた。
後になって思えば、そっと部屋に戻り何も知らなかった事にすれば、と悔やまれる。もっと後になれば、何故そうしたのか、訳も考えられ、益々後悔の念が募り行く。自分の除外されてしまった世界から帰って来て欲しい、帰って来てくれ、と二人に請う気持ちからの行動だったのだ。乱暴に閉められたドアが夜のうちに開けられる事はなかった。カーテンの隙間から日の光が差し込んで、世界が終焉を迎えた事を知り、胸をなで下ろし自らドアを開けた。

母は子供にとても甘かったようだった。その夜から変わったのかどうかは、分からない。記憶の中での母は、めったに子を叱らなかった。カーランが何をするのも、目を細め、まるで空想に耽っているかのような柔らかい表情で見守っていた。
そもそも強く叱られるような事をした覚えもない。言い付けを良く守ったし、駄々をこねたりもしなかった。見たいテレビも時間になったら消して布団に入った。それでも、母は度々カーランの様子を窺いに来ていたようだった。小さく床が軋む音を布団の中で聞いた。ドアが開けられる事もあった。布団が捲られる事もあった。カーランと目が合うと母は微笑んで、小さな声で話をして聞かせた。内容は覚えていない。物語のような、昔話のような、話だったようにだけ記憶している。母自身の昔話に創作を加えたものだったのかもしれない。少なくとも、カーランをわくわくさせる話ではなかった。想像も付かない程遠い所の、話だった。
父はめったに口を開かない、いかにも威厳を感じさせる人間だった。一緒に楽しく遊んだ記憶はない。正面から顔を合わせた事も、もしかすると無かったのかもしれない。横顔だけが印象深く残っている。母がカーランについて嬉しそうにあれこれ話し、その時にほんの少しだけカーランの方を見るのだった。カーランは服のボタンなんかを弄り俯いていた。気配だけで、父がこちらを見た、と感じ取った。ため息のようなあくびのような「ふぅん」という声を聞いて、初めてほっとして顔を上げた。その頃には父は既に、カーランに横顔を見せていた。

その古い記憶を辿り寄せると、数珠繋ぎに手繰り寄せられる記憶として、一枚の絵がある。あれはカレンダーだったか、ポスターだったか。いやカレンダーだったのだろう。11月のカレンダーを破くと、現れた絵だ。クリスマスの絵だった。それまでにもその種の絵を見た事がなかったわけではなかろう。ただ、その時だけ、強く記憶として残ったのだ。12月らしいごく普通の、特徴的でもない、絵としてはとてもつまらないものだ。それに、強い衝撃を受けた。
トナカイが引くそりに乗って、サンタクロースが夜空を飛んでいた。濃紺の空、右から左に向かって、柔らかい表情で。空には星。いや舞い散る雪だったのかもしれない。しかし、星と、当時は思い込んだ。家々の屋根に厚く積もった雪は、目に鮮やかな純白で、綿のようにも見えた。夜が煌いていた。真っ暗なはずの夜が、キラキラと輝いていた。少年は、天国だ、と思った。死者の世界ではなく、楽園としての天国が描かれていた。同時に、自分は見る事のできない世界なのだと了解し、納得した。これが本当の夜の世界で、決して立ち入られない世界。煌びやかな無数の光に満ちて、ふわふわと優しく暖かい心地がするのだ。1ヶ月、その絵にじっと見入ってから、布団に入った。その布団は冷たく、頭まで潜り込むと真っ暗で何も見えなくなってしまったが、心ばかりは弾み暖かかった。
その年だったか、また数年後だったか定かではないが、友人のひとりが「サンタクロースは存在しない」と周囲に触れ込んでいるのを聞き、カーランが抱いていた想像は確信に変化した。良い子の所にプレゼントを届けに来るというサンタクロースは実は存在せず、代わりに父親がプレゼントを買って用意しているのだというのだった。別段、がっかりもしなかった。良い子にしていたとしても、クリスマスの夜、きちんと眠りに着いていなければプレゼントは届けられない。この訳がやっと分かったと思った。カーランが立ち入ってはいけない世界にいるサンタクロースが、その日だけは、眠っている隙に特別に、カーランの元へやって来てくれる。むしろ嬉しくて、嬉しくて、そこら中を跳ね回りたかった。
家に帰って、早速母に真意を尋ねた。母は微笑んでそれを認めた。「オトウサンに、ありがとうって言いなさい」カーランは言われた通りに帰宅した父に礼を言い、その年からプレゼントは要らないとも付け加えた。貰っている小遣いで買うと宣言した。父は描かれているサンタクロースそのままの表情で、頷いた。「今まで僕のサンタクロースで居てくれてありがとう」ともう一度頭を下げた。
小遣いで買った自分へのクリスマスプレゼントは児童向けの文庫本だった。母は喜び、カーランを「しっかりした子」だと褒め称えた。普段のように父に話して聞かせ、父は「ふぅん」と言い、カーランは胸を撫で下ろす。以来カーランは「しっかりした子」であり、母の話の種となり、また何かしらの前提ともなった。

中学に上がったばかりの頃である。母は唐突に前提を掲げ、ひとつの提案を持ち掛けた。それは入ったばかりの中学校を、卒業した後の進路についてであった。名の通った、とある高等学校への進学を勧め、またそこは家からは通えぬ距離にあるから、近場に下宿先を決め通うと良いとの助言も加えた。「カーランはしっかりしているから、オカアサン全然心配にならないわ」カーランはすぐにも受験を意識した勉強を始めた。また数ヶ月経つと、母はファッションの趣味が変わったのか、これまで決まりきったように履いていた、濃紺色のストレートのGパンを履かなくなった。裾が長くヒラヒラとした衣服を纏うようになった。そしてまたひと月、ふた月と日を重ねるごとに、ファッションだけでなく体型が変わってきた。腹が、丸く張り出して来た。形がはっきりすればする程、家の中の雰囲気も変わって来た。笑い声に満ちるようになった。低いのと高いのと、二つの幸せそうな笑い声を、カーランは自分の部屋で聞きながら勉強に励んだ。
ある日学校から帰ると、家に母が居ない。夜、父も帰って来なかった。独りの生活が一週間続いた後、小さな笑い声と共に家族が帰って来た。腹の小さくなった母と、目尻の下がった父と、その腕に大切に抱かれた、真っ白の布に包まれた繭のようなものが。それも、家族だった。新しく増えた家族だった。笑い声がまたひとつ増えるのだろう。カーランはその光景に思いを馳せ、幸せな気持ちに浸った。
しかし部屋へ聞こえるのは、新しく増えた家族の泣き声ばかりだった。身動きすらしてはならぬ雰囲気を感じさせる静寂と、1,2時間ごとに響き渡る泣き叫ぶ声。その声は朝も夜も関係なく平然と世界の隔たりを打ち壊し、我が物顔でのさばり返っていた。やがて泣き声に、低い怒鳴り声も加わるようになった。そして遂に、甲高い悲鳴のような叫びが放たれた。
「急に母親なったからって、初めての事を何でも上手くできる訳ないじゃない!」
その声は、ドアを閉めたカーランの部屋にもはっきりと聞こえた。母が声を荒げたのを聞いたのはそれが初めてだった。
ドスンドスンという重い足音が近づいて来た。ノックもせずに、父が部屋へ押し入った。
「どうしてお前は家の手伝いもしないで部屋に籠もっているんだ!何の為にこれまで飯を食わせてやったと思っている。役立たずが!」

また月日を重ねれば、家には笑い声が戻って来た。高い声が二つになった。ある日帰ると、部屋が見違える程変化していた。その部屋はカーランの部屋ではなくなっていた。パステルカラーの壁紙に張り替えられ、カーテンは星のイラストがドット状に散りばめられた賑やかな柄のものに掛け替えられ、使い慣れた机やタンスも別の物と取り替えられていた。カーランの持ち物は勉強道具と衣服だけが壁の隅で、申し訳なさそうに身を縮めさせていた。父がお古のトランクケースを譲ってくれた。キャスターが壊れ、トランクとしては使い物にならなかったが、カーランの持ち物が全て丁度良く納まる大きさだった。机としても使えた。大切にすると誓い、本当に大切に使った。当時のカーランにとって、一番大切なものになった。

だからその時も、まずそれを抱きかかえた。
カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
真夜中の事だった。
決して立ち入ってはいけない世界の終焉を告げる光に、胸を撫で下ろした。
真っ黒な煙の立ち込める部屋、廊下、しかし不思議と、全てが見通せた。廊下の先にある、決して開けてはならぬあの部屋の扉もはっきりと見えた。カーランの侵入を拒み固く閉ざされた扉へ、手を伸ばし、しかし躊躇ったのは一瞬で、すぐに手を引っ込めた。代わりに、頭を深く下げた。

「今まで、僕のお父さんとお母さんで居てくれてありがとう」

窓から差し込む陽の朱々とした光がカーランを呼んでいた。
カーランは振り返らず、駆けた。楽園へは行けない自分を迎え入れてくれる、轟々と熱い光の差す世界へ、駆け出した。


満天の星空の下で 終
ぽぽ子

 


考えた設定をせっかくなので、語りに書くのをやめてちょっとしたストーリーめいた感じに…。
急拵えのパラレルで一回限りのつもりだったんですが、色々考えていたら楽しくなってきたのでw
こっちを後から書いたもんで、あんまり向こうと関連性はありません、そういう事にしてくだしあ…。軸だけ一緒、みたいな。


ぐだぐだどこまでも続けるのは悪い癖だなーと思ってボツになった設定関係のネタ

カーラン以外の家族は隣家から燃え移った火災で死亡、荷物しっかり持って出てきちゃったカーランは放火犯だとご近所に疑われる。高校入学決まっていたので早々に引っ越し。成績優秀でちやほやしてた学校も手の平返したように、なんか面倒な生徒、出席日数何や足りてるから来なくていいよ、みたいな感じになっても良いかなぁ。
家焼けた次の日祖母とかいう人と初めて対面する。全くの捨て子を娘(息子)が反対も聞かないで養子にしただとか(夫妻は最初不妊と思われてたみたいなのを考えてありました)、何の血の繋がりもないあんたの面倒見るつもりもないだとか、余計なものだけ残して逝くだなんてうわぁんだとか、暴露と愚痴と暴言をごちゃまぜで。
遺産とかどうなるのかなーとか、娘息子殺した疑いすらある奴を(そうでなくても一人で逃げて来ちゃったし)そんな愚痴暴言で済ませちゃうのかなぁとか疑問もあったので、そういうのでもボツ。
入学式では新入生代表の挨拶だとか。でその日のうちに担任に呼び出されちょっと来いで応接室に、入学式で来賓お呼ばれしてた有名OB(そんなん呼ばれる事あんのかな?)のおじさま登場。代表挨拶で目に止まったとかで。
開口一番「こんな厄介なものが今まで存在していたとはな」
生い立ちとか一方的にあれこれ聞き出されるだけでその日はさようなら、後日実の父親らしいとか告げられて(顔見ただけでピンと来た?ありえねぇ気するw)何か法律上の話とか(認知とか養育義務とか)金の話とか(この辺調べるのも嫌だったとか)厄介者呼ばわりされててめーの世話になる気さらさらねぇみたいにブチ切れ(駄々こね?反抗?)生き方を決める「親父を見返してやる」
ここまで書かないと繋がりようがありませんね…w

カールは未婚の子、というか母親が産んですぐ捨てたとかで。シグも未婚の子なんだけどこっちは原作通りな感じで母と親戚にちゃんと育てられ、母死後に実父出て来て父と再(?)婚妻とその子と一緒に暮らす。高校入ったら自立したいとかは自分から言い出した。いやいやずっとウチから通いなよ遠慮してるの?いやいやそんなんじゃないんですが、って押し問答の末にパパちゃんと学費とか最低限払ってあげてる。カールには「シグも厄介払いされて自分と一緒」とか勝手に思い込まれてた。

こんな所だべか…

2010.12.2